九州の中心部には霧島火山帯があるため、多くの温泉に恵まれています。源泉は9500ヶ所以上あるといわれており、数の上では九州3県が全国の温泉ベスト5に入っています(環境庁自然保護局施設整備課作成資料/平成10年3月)。まさに温泉の宝庫といえるでしょう。そのなかにあって、二日市温泉は「放射能泉」という珍しい温泉です。この種の温泉は、九州では玉名・日奈久(熊本県)、堀田(大分県)、弥次ヶ浜(鹿児島県)などがあり、全国的には三朝温泉(鳥取県)、増富温泉(山梨県)が有名です。では、放射能泉とは、どのような温泉なのでしょうか。
筑紫野市周辺には、約9千万年前にできた「早良花崗岩」が広く分布しています。この岩には、ウランを含有したモナズ石という鉱物が多く含まれています。ウランがラジウムやラドンに変化していくときに出る熱で、鷺田川付近の地下水が暖められ、地上に湧出したのが二日市温泉です。
放射能と聞いただけで、つい危険な印象を抱きがちです。しかし、心配はいりません。微量の放射能は、大量の地下水によって希釈されていますから、人体への悪影響は全くありません。それどころか、切り傷・やけど・皮膚病・動脈硬化症・神経痛・関節痛・リウマチ・糖尿病・痛風・冷え性・不妊症など、”万病に効く”といわれるのが、放射能泉の特徴です。
切り傷によく効く温泉は、戦乱の時代では特に重用されたと思われます。詳しい記録はありませんが、二度にわたる蒙古襲来(1274年、81年)、少弐氏・菊地氏の合戦(1336年)、島津氏の北部九州への侵攻(1586年)などの大戦では相当数の負傷者が出たことでしょう。武田信玄が川中島合戦の4ヶ月前に、負傷者の続出を想定して湯屋(山梨県・川浦温泉)の造営にあたったことからもわかるように、交通の要衝にある二日市温泉は、重要な湯治場になったと思われます。
源泉名 | 二日市温泉 |
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泉温 | 55.6度 |
湧出地 | 福岡県筑紫野市湯町2丁目473-1 |
泉質 | アルカリ性単純温泉(低張性アルカリ性高温泉) |
浴用の適応症 | 神経痛、筋肉痛、関節痛、五十肩、運動麻痺、関節のこわばり、うちみ、くじき、慢性消化器病、痔症、冷え性、病後回復期、疲労回復、健康増進 |
浴用の禁忌症 | 急性疾患(特に熱のある場合)、活動性の結核、悪性腫瘍、重い心臓病、呼吸不全、腎不全、出血性疾患、高度の貧血、その他一般に病勢進行中の疾患、妊娠中(特に初期と末期) |
九州には、数多くの温泉がありますが、奈良時代からの歴史を持つ温泉となると、そうたくさんはありません。ざっと列記してみましょう。
・二日市温泉(旧名:次田、出典『万葉集』)
・柴石温泉(旧名:赤湯、出典『豊後国風土記』)
・鉄輪温泉(旧名:玖倍里、出典:『豊後国風土記』)
・亀川温泉(旧名:浜田、出典:『豊後国風土記』)
・別府温泉(旧名:速見、出典『伊予国風土記』)
・武雄温泉(旧名:柄崎、出典『肥前国風土記』)
・嬉野温泉(旧名:嬉野、出典『肥前国風土記』)
・雲仙温泉(旧名:温泉山、出典『肥前国風土記』)
・霧島温泉(旧名:霧島、出典『続日本紀』)
古典にみえる温泉となると、意外に少ないことがわかります。文化7年(1810年)に出版された八隅蘆庵著『旅行用心集』には、36ヶ所の九州の温泉が紹介されています。先に列記した9ヶ所のほか、山鹿・荒川(平安時代)、湯浦・入来(南北朝時代)、浜脇(平安時代)、小浜・垂玉(戦国時代)などが古くから知られていた温泉です。そして、これらはいずれも九州を代表する温泉として、現在も多くの入浴・観光客を集めています。
温泉ブームの現在では信じ難いことですが、100年ほど前までは、福岡県では二日市温泉が唯一の温泉でした。林貞裕著『温泉志』(出版年不詳)、渋井孝徳著『温泉譜』(1700年代)、三宅意安撰『本朝温泉雑考』(1767年)、前出の『旅行用心集』、いずれも筑前国では二日市だけを上げています。吉田東伍著『大日本地名辞書』(1900年)には、「(湯つぼ)凡十四所、浴槽二十許、民家九十、皆浴戸なり、号して湯町と曰う、四時客来多し、福岡県唯一の温泉とす」と記されています。このことから。『竹取物語』(9世紀後半〜10世紀前半)の「筑紫の国に湯浴み」、『本朝文粋』(11世紀中ごろ)の「西海温泉」、『朝野群載』(12世紀前半)の「鎮西温泉」、『本朝無題詩』(12世紀後半)の「西府温泉」など、古典にみえる筑紫の温泉の記述は、すべて二日市温泉であったと考えられます。
※二日市温泉の名称は、昭和25年(1950年)に命名されました。それ以前は武蔵温泉、薬師温泉、次田温泉(すいたのゆ)などと呼ばれていましたが、ここでは便宜上「二日市温泉」に統一しました。
二日市温泉が歴史に登場するのは、はるか1300年前の奈良時代です。最古の和歌集である『万葉集』には、大宰師(長官)大伴旅人が亡き妻を慕って詠んだ歌が収められています。歌の詞書にある「次田温泉(すいたのゆ)」が現在の二日市温泉のことです。律令国家によって地方行政制度が整備され、この一帯は御笠郡となり、そのなかに大野・次田・御笠・長丘の4つの郷がありました。旧筑紫野市役所付近を次田(つぎた)といいますが、これは古代の名残りです。「ふるさと館ちくしの」一帯には「湯の原」という地名もあり、万葉の舞台であったことを彷彿とさせます。
平安時代中頃の『古今和歌集』には、源実(みなもとのさね)が湯治のため、筑紫へ旅立ったときの、遊女との別れの歌が収められています。「せめて命だけでも願いどおりになるならば、なんでお別れが悲しゅうございましょうか」と涙を流す遊女に、「これは自分から望んだのではなく、強いられた旅なのだ」と慰めた歌です。当時の法律では、官僚が病気になると官位五位以上は天皇の命令で医師が派遣され、その指示に従って温泉などで療養することになっていました。
源俊頼が父で大宰権帥の経信の葬儀を終えた帰り、二日市温泉に立ち寄って詠んだ歌が残されています。「悲しさの涙とともにわきかへるゆゆしき事をあみてこそしれ」。父を失った「由々しい出来事に悲しい涙がわく」というのと、「湧き出る湯に湯浴みする」を掛けた歌です。
『梁塵秘抄』には、二日市温泉での入浴の社会的序列を示した歌があります。「すいたのみゆのしたいは、一官二丁三安楽寺 四には四王寺五さふらひ、六せんふ 七九八丈九けむ丈 十にはこくふんのむさしてら よるは過去の諸衆生」。最初に入浴するのは大宰府の高官で、次に丁(観世音寺)の僧侶、安楽寺(太宰府天満宮)の僧侶、四王寺の僧侶、太宰府勤務の武士、太宰府勤務の料理人が続きます。「七九八丈」の意味は分かりません。「けむ丈」は傔仗で大宰府の高官を護衛する武士のことです。最後に入浴するのは武蔵寺の僧侶、そのあとは過去の諸衆生(先祖の霊のことか)とされていました。この歌から、同温泉は大宰府政庁の付属施設として厳格に管理されていたことが推測されます。このように、二日市温泉は特別な温泉でしたから、大江隆兼や蓮禅、藤原行家など著名な歌人たちがこぞって入浴し、それぞれ歌を残しています。
近代では、三条実美ら五卿の歌があります。慶応元年2月〜3年12月(1865〜67年)まで太宰府に滞在した彼らは、この地で新しい国家への道を模索していました。実美の「ゆのはらに/あそふあしたつ/こととはむ/なれこそしらめ/ちよのいにしへ」の歌からは、近代国家の理想像として、古代律令国家が意識されていたことがうかがえます。明治22年(1889年)、九州鉄道が開通してからは、多くの文人たちがこの温泉を訪れ、作品を残しています。市福祉センター「御前湯」の入口には「温泉(ゆ)の町や踊ると見えてさんざめく」の夏目漱石の歌碑があります。明治29年(1896年)、漱石が新婚旅行で訪れたときに詠み、正岡子規に送った歌です。
JR二日市駅前広場には、筑紫小歌と題する野口雨情の歌碑が建っています。古代から絶えることなく歴史の舞台となってきた二日市温泉は、現在も多くの人々に親しまれています。
出典:『ちくし散歩』
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